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「君の名は。」の映像美がもたらす「没入感」とは!?

 

君の名は。」の映像美がもたらす「没入感」とは!?

 

 

劇場を飛び越えた「文化的事件」

 

 

新海誠監督の長編アニメ「君の名は。」が大ヒットを飛ばしている。人気ぶりは劇場にとどまらない。レンタルビデオショップでは過去の新海作品の貸し出しが止まらず、書店では監督書き下ろしの原作小説が売り切れるほどだ。もはや社会現象のレベルを超え、文化的な「事件」である。

 

 

 インターネット上には作品のレビューがあふれ、新聞・雑誌は様々な角度から作品解説を試みている。圧倒的な映像美、巧みなストーリー運び、作品の世界観を補強する「RADWIMPSラッドウィンプス」の楽曲――。どの指摘もうなずけるが、他方でまだ肝心なことを言い落としている感じが残る。

 


 1000年に1度の彗星すいせいの来訪を控えた現代の日本を舞台に、東京の男子高校生・瀧たきと山深い町の女子高校生・三葉みつはの不思議な出会いを描いた長編アニメである。私も何度か映画館に足を運んだが、客席はいつもほぼ満席。若者だけでなく、幅広い世代に支持されているのを感じた。

 

 

 この作品の人気の秘密を考えるのに、やはり映像の美しさを外すことはできない。

 

 

 新海作品の最大の特色は、背景描写の圧倒的な美しさだ。ロケハンによる写真をベースに、デジタル技術を駆使して丹念に描かれる背景は、実写と見まごうほどリアルで、みとれてしまう。前作「言の葉の庭」(2013年)でも、繊細な筆致と絶妙な色彩で描かれた雨の公園や、板チョコなどの静物、映像にあるものすべてが本当に「そこ」にあるかのような存在感と迫力があった。

 

 

 今作でもこの「背景美」は精度を高めて健在だが、これまでと決定的に違うことがある。「背景」がエンターテインメントを楽しむための<仕掛け>として、見事に機能していることだ。

 


 多くの観客は、予告編にあった「男女が入れ替わる物語」を超える想定外のストーリー展開に驚かされることになる。

ここで大事なことは、どうやって観客を物語のクライマックスまで連れて行くかである。そこで新海が用意したのが、「背景」を使って無理なく観客に“ヒント”を与え、物語に“没入”させることだった。

 

 

 観客が目を奪われる微細な「背景」には、新海の手によって物語の重要な伏線やヒントが埋め込まれている。スマホ画面の日付、黒板の小さな文字、テレビ画面や街頭ビジョンのさりげない映像……。観客は「背景美」に惹ひきこまれながら、無意識のうちに、物語全体を読み解く=楽しむ=ためのカギを拾っていく。登場人物のセリフや表情だけでなく、「背景」もその重要な役目を果たしているのである。

 

 

 新海はこれまでの作品でも、登場人物の心情や場面の意味を背景で暗示することはあったが、今作の「背景」が担う役割は種類が異なる。これは、観客が等しく作品を楽しめる本質的なポイントであり、新海の真骨頂になっていると言える。

参照:http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160921-OYT8T50150.html

 

 

 

 

リアルに描かれた「スマホ世代」の恋

 


 

細やかに描かれた「背景」や「小物」の中で、特に際立つのがスマートフォンの存在である。

 

 

 物語冒頭、入れ替わった瀧と三葉が夢から覚めるシーンで印象的に描かれているのが、アラームの鳴り響くスマホである。二人がコミュニケーションを取る大事なツールも、スマホの日記アプリだ。

地図アプリや電車の乗り継ぎ検索、まとめサイト、本体のトーチライト機能、LINEなど、スマホは随所で物語を支える。こうした現代の「スマホ文化」をリアルに取り込んでいる点も、観客を作品に引き付ける潜在的一因と言える。

 


 だが、私がもっと興味深いと思ったのは、「スマホ文化」への批判が垣間見えることだ。今の時代、誰かと待ち合わせをするにもスマホが欠かせない。だが、物語が描くのは<自分の力だけでも「大切な人」にたどり着くことができる>という、極めてアナログな人間ドラマである。事実、瀧と三葉の初めての接触、「カタワレ時」=黄昏たそがれ=の対面、そしてラストの再会―のすべてが、スマホの力を借りずに果たされている。現代の高校生らしくスマホを手放せない二人が、スマホの介在しない環境で、運命と恋を手にしていく。その姿に爽快感を超えた感動を覚える。

 

 

 とはいえ、映画を見終わった途端、観客がスマホを取り出し、感想を発信するのは皮肉だ。それがさらに作品の人気を高めてもいる。物語のあらすじとは別のところで、作品の持つ「スマホ文化」との絶妙な距離感や関係性が、本作の人気の一端を支えているのは明らかである。

参照:http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160921-OYT8T50150.html?page_no=3

 

 

 

 

 

 

日本の「あの日」を<希望>と<未来>に転換

 


 

物語終盤は、3.11の影響を受けているように見える。日常の風景が大きく変わってしまうような展開が、「重い」メッセージを含んでいることは否定できない。

 

 

 だが、そこで描かれるシーンを、あるいは作品全体を「深刻」に見るのは、おそらく的外れと思われる。新海が届けたいのは、そして実際に観客が受け止めるのは、冒頭のナレーションにあるように、「あの日」以来、自分と世界を包む、言葉にできない雰囲気や空気感ではないだろうか? 物語はそこに間接的に触れ、想像力でもって「あの日」に<希望>や<未来>を与えようとしているように、私の目には映る。

 

 

 というのも、終盤の彗星の映像は、人間=生物の「受精」の瞬間を暗喩しているように思えてならないからだ。「尾」を引くティアマト彗星を中心とした複数のほうき星が無数の「精子」で、地球が「卵細胞」である。彗星が割れるのも細胞分裂をイメージしているのだろう。表面が彗星の光で二つに分断された湖面は、受精後の「卵割」を表しているようだ。いずれにせよ、物語は彗星を、<生>をもたらす出来事としてイメージ化し、<希望>に転換しようとしているのだ。

 

 

 また、物語は瀧の生きる時間を軸に進みつつ、3.11以後の大事な節目も、そっと喚起する。

 


 大震災から5年目の時代を生きる私たち日本人はみな、自分が「あの日」とつながっていることをよく知っている。だが、実際にどうつながっているのか、これから先どうつながっていけばよいのか、ぼんやりとしか分かっていない。瀧と三葉のように、わずかながらでも「あの日」とのつながりを確かめることができるか? 新海は物語を通じて、私たち日本人の時間軸に<未来>を描き、問いかけたかったのかもしれない。

 

 

 それにしても、なぜあの彗星を何度も見て、涙したいと思うのか、私はしばらく分からなかった。新海作品に欠かせない宇宙、空、雲を結集するように美しく描かれた彗星。それは、ナレーションの通り、「夢の景色のように、ただひたすらに、美しい眺め」で圧巻である。それがストーリー展開とは関係なく、新海が生み出した彗星であることに、そもそも答えはあった。

 

 

 すでに述べたように、新海の描く風景は現実を超えるようなリアリティーを備えている。逆に言えば、現実のように見えるが、虚構である。この究極の両義性を持つ彗星は、それだけで<救い>であり、見る者にかけがえのない<希望>をもたらすのである。そして、その<希望>は「あの日」へとつながっているのだ。

 

 

 背景も、スマホも、彗星も、これ以上ないほど美しい。だが、その奥底にこそ、作品が大衆に受け入れられる本質がある。ただ「美しいから」という水準を超えて初めて、人気の秘密は垣間見えてくる。

映画館で繰り返し見たい思いは、しばらくやみそうもない。

 

参照:http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160921-OYT8T50150.html?page_no=3

 

 

君の名は。 (角川つばさ文庫) 単行本 – 2016/8/15

私は三葉。山にかこまれた小さな町で、おばあちゃんと妹の四葉と暮らす、ごく普通の高校生、のはずだった。そんな自分の人生がイヤになったある日のこと。「東京のイケメン男子にしてくださーい!」って神さまにお願いしたら、なんと、夢のなかで男の子になっていた! ――だけどこの夢、リアルすぎるんですけど! もしかして私、本当に男の子と入れかわってる!? ふりがなつきだから小学校高学年から楽しく読める! 出会うはずのないふたりの奇跡の物語。 

 

 

 

 

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